スピリット・オブ・アートセラピー 3

アートセラピーとの出会い

 

 

私がアートセラピーを学ぶために、ニューヨークのブルックリンにある、プラット・インスティチュートのクリエイティブ・アーツ・セラピー学科(大学院)に入学したのは、1985年のことである。

 

プラット・インスティチュートのアートセラピー学科は1970年に設立され、ニューヨーク大学、ジョージ・ワシントン大学、エマーソンカレッジ、ハーネマン・インスティチュートの5つのプログラムがほぼ時を同じくしてスタートし、アートセラピーの大きな流れを作っていった。

 

アメリカでは1969年にアメリカ・アートセラピー協会(AATA)が設立され、翌年1970年には最初の大会が開かれている。

 

それ以降のアートセラピーの広がりがすごく、1971年から78年までの7年間に大学院レベルでのアートセラピーの専門コースが14、学部レベルのコースが21も破竹の勢いで設立されている。

 

以前アメリカのアートセラピーの重鎮であるJudy Rubinに、一体そこで何があったのかを直接尋ねてみたことがある。

 

彼女の答えは、肩をすぼめ、「奇跡が起きたのよ」の一言だった。

 

 

プラットのあるブルックリンは、かつてはハリウッド映画の舞台にも選ばれていた高級住宅街のイメージであったが、私が滞在したころは住民の大半が貧困な黒人やヒスパニック層で、当時は治安が非常に悪かった。

 

私が在学していた時も、夜マンハッタンでのアルバイトから帰宅途中の女学生が、ヒスパニックの男性に金をゆすられて、抵抗をしたらピストルで撃ち殺されるという事件があった。後に逮捕されたその男は、その時ドラッグをやっていたことが判明。

 

私自身も、学生中に3回もマグされている。一度はスーパーでの買い物の帰りに10人ほどの黒人の若者の集団に追いかけられて、寮のドアーの前でぐるりと取り囲まれたこと、もう一つは、寮の中に一緒に入ってきた黒人の若者に、階段のところで銃口を突き付けられて金を要求されたことである。

 

当時は、中学生くらいの子どもたちの多くが、ピストルを所持していると言われている、そんな時代であった。

 

因果なことに、後にブルックリンにあるニューヨークの市立病院で働くようになった時、そのような環境で精神科病棟に入院してきた多くの人々に、アートセラピーで接することになる。

 

ところで、皆さんの中で銃口を突き付けられた経験をした人はおありだろうか?

私は一度経験している。

追剥が私に銃を向けたとき、私の目は銃口にくぎ付けになった。

私にとって銃口の穴は漆黒の闇で、別な言い方をするとその黒は地獄とつながっている地底にまで届くほど深いものであった。

 

私はこの経験で黒という色に明確な元型的イメージを得た。

しかし、後になって黒の持つ意味のもう一つの側面を学ぶことになる。